スペシャルコラム
〜 あの日 あの時 青春野郎 〜
第32回 「 東京バンバータ 」( 東京) 梅田大喜選手
なるか!9年ぶり6度目の甲子園! ★02覇者「明徳義塾」梅田大喜選手 -東京バンバータ(東京)-
梅田大喜選手(明徳義塾)は、高校野球史を語る上で避けて通れない男のひとり。 名門・明徳義塾で1年生春からレギュラー。三塁手として森岡良介選手(現ヤクルト)と三遊間を形成し、入学わずか4ヶ月にして全国制覇を経験した。 1学年後輩には中田亮二選手(現中日)、松下建太選手(現西武)らがいる。 甲子園には1年の春から3年の夏まで計5度の機会にすべて出場を果たした。 全5回を一桁背番号(5→5→6→5→2の順)を背負い出場したのは、PL学園の清原和博選手(元巨人)と、明徳義塾の梅田大喜選手だけである。 激闘!ダルビッシュ世代 ― 梅田選手の3年間、特徴のひとつとして、戦ってきたレベルがえげつない。 1年時に前述の森岡選手(現ヤクルト)らと全国制覇を達成したあと、2年時には西村投手(現巨人)の広陵が優勝、成瀬投手(現ロッテ)、涌井投手(現西武)の横浜高校、ダルビッシュ有投手(現テキサス)の東北高校がそれぞれ準優勝。3年時は福井投手(現広島)の済美が優勝。いわゆる「ダルビッシュ世代」とその前後で数々の名勝負を演じた。 最後の春は済美(福井投手)、最後の夏は横浜高校(涌井投手)の前に惜敗した。いずれも高校野球史に残る大激闘として語り継がれている。 翌夏は田中投手(現楽天)の駒大苫小牧、翌々夏は斉藤投手(現日本ハム)の早稲田実業が優勝を飾っていることからも、現在のプロチームの主力プレイヤーが揃うどえらい年代で競っていたことが分かる。 ちなみに梅田選手が1年時に西岡選手(現阪神)の大阪桐蔭、2年時に堂上選手(現中日)の愛工大名電、山中投手(現ソフトバンク)の必由館、山口投手(現DeNA)の柳ヶ浦、江川選手(現ソフトバンク)の宇治山田商、3年時に前田健太投手(現広島)のPL学園、平田選手(現中日)の大阪桐蔭、今成選手(現阪神)の浦和学院、岩本選手(現広島)の広島商と同じ夏の甲子園を戦ったことはあまり知られていない。 梅田大喜選手の「原点」を探るべく、とある木造の喫茶店に呼び出した。 兄の勇姿と、父のスパルタ指導 ― 高知生まれの明徳育ちと思われがちだが、愛知県出身の梅田選手。 原点は、小学校2年生の頃に遡(さかのぼ)る。 地元:愛知高校の選手として、甲子園で活躍する兄の姿(94年夏:第76回大会)に感動し、初めて「甲子園」を意識したという。 「甲子園に行きたい」 加えて、兄の成し得なかった”全国制覇”を夢見たあの夏。 その後、父のスパルタ指導の下、メキメキと実力を身に付けていった梅田少年。 父の指導ついて梅田選手「いや本当かなりのスパルタでしたね。でも、それがよかったのかもしれませんね(笑)」と笑顔で振り返ってくれた。 小学校時代は軟式。中学はボーイズリーグ(硬式)に所属する。ここでも猛練習の日々。若干13歳にして頭角をあらわすと、チームの主力選手として才能を解き放ち、「愛知の梅田」は広く知れ渡り、いよいよ全国区で脚光を浴びる。 高校選び 「やるなら明徳」― 「やるなら明徳義塾」とほぼ最初から決めていたと言う。 地元愛知や大阪にもいわゆる名門校が揃うが、いったいなぜ四国の明徳義塾に拘(こだわ)ったのか。 梅田氏「ただ単に、5回全部甲子園に出たかったんです。」 勿論、地元愛知を背負いたい気持ちもあったし、中間、大阪の超強豪校への進学と迷った時期もあった。だが、それ以上に5季全部出ることに拘(こだわ)ったのだ。1年からメンバーに選ばれなければ達成できない。腕に自信がなければ思いつかない考え方である。 「地元愛知県では、毎季どこが甲子園に行くから分からないですし、もし仮に同期の友達が甲子園に行って、自分は行けなかったりしたら、考えただけでも怖かったですから(笑)」 いやいや、こっちが怖い。なんという自信・・・。 とりあえず、アイス珈琲とスパゲッティを注文することにした。 当時の愛知や大阪は特に激戦で、強豪校が凌ぎを削った。5季連続出場どころか、めぐり合わせによっては3年間1度も甲子園に出場できずに終わってしまうことだってある。そうした背景を踏まえて、それまで県代表として甲子園に連続出場中の「明徳義塾」を選んだという。勿論、同じような思いで明徳にやってくる全国のライバルは多数。此れを充分に承知しての選択だった。 また、明徳義塾を選んだ理由として、甲子園で活躍する同校のとあるプレイヤーの活躍に魅了され”明徳”への強い憧れを持ったことも1つ。のちに三遊間を組む森岡選手(現ヤクルト)である。ひとりのプレイヤーが少年を魅了し、夢は次世代へと引き継がれる。此れぞ野球人生の醍醐味かもしれない。ちなみに森岡選手自身は「98横浜高校 VS明徳義塾」の一戦に感動し明徳義塾進学を決心したと報じられている。 明徳義塾、全国制覇 ― こうして、梅田少年15歳、晴れて明徳義塾へ入学する。父のスパルタ指導の甲斐あってか、野球部の門をくぐると、すぐにその力を認められベンチ入り。そのままレギュラーに就任した。攻守の要としてチームに貢献した梅田選手。チームは一気に高知県大会を制覇。1年生にして、「甲子園」出場切符を手にした。 梅田選手は全国大会においてもルーキーらしからぬ活躍をみせる。 1年生ながらチーム初ホームラン(青森山田戦)を放つなど暴れまわり、入学わずか4ヶ月、明徳義塾は全国優勝を達成する。これが明徳義塾の春夏通じて19度目の甲子園出場にして初めての優勝である(高知県勢の優勝は1964年夏の高知高以来38年ぶり2度目)。 一部の生中継では「大甲子園球場は、明徳義塾を、過去の様々な呪縛から、いま解き放ちました!」と実況し同校の初優勝を称えている。 ちなみに貴重な初本塁打の際は、3年生の森岡選手に褒めてもらえるかと思ったが「気を抜くな。集中しろ。」と言われたという。 改めて高校野球一番の思い出を聞くと「やっぱり優勝したことですかね。」と梅田氏。 尊敬する森岡選手と三遊間を組ませてもらったことも踏まえ、1年時の全国優勝は特別なものであったと振り返る。 ☆優勝:明徳義塾(02年夏:第84回大会): └ 1回戦:酒田南、2回戦:青森山田、3回戦:常総学院、準々決勝:広陵、準決勝:川之江、決勝:智弁和歌山 なお、この大会は四国勢が大活躍したことでも知られる(四国旋風)。尽誠学園(香川)、川之江(愛媛)、鳴門工(徳島)、明徳義塾(高知)の4校すべてがベスト8まで勝ち残った。その中で、明徳義塾が魂の初優勝を成し遂げた。 2年時も春夏を通じて数々の名勝負を演じ、「3番サード梅田」の才能は確実に世に浸透していった。 特に春の3回戦:横浜高校戦は敗れはしたが語り継がれる名勝負。 2点を追う明徳義塾は8回ウラ、二死一塁の場面で成瀬投手(現ロッテ)から梅田選手がこの日3本目となる安打を放った。絶体絶命の場面にも、逆らわず右方向へ転がし、4番の山口選手へ繋いだ。 直後、主砲山口選手がレフトオーバーのタイムリー。一塁走者の梅田選手は激走し、頭から本塁へ滑り込み執念の同点ホームイン。この時ばかりは、激しく2度、右手でガッツポーズした。まさに「ザ・高校野球」といえる一連の名シーンからなる同点劇であった。ゲームはこのあと横浜が2年生涌井投手(現西武)を投入し死闘の延長戦にもつれ込んだ。 最後の夏、涙が意味したもの ― 3年春には自らホームランを放つ活躍で、高知県勢としては実に19年ぶりとなる選抜ベスト4進出に貢献した。 そして迎えた5度目の甲子園、すなわち最後の夏。ここでサプライズが勃発する。なんと梅田選手が背番号「2」をつけ甲子園に帰ってきた。三塁手でなく、捕手としての出場である。正捕手の田辺捕手(現富士重工)が調子を崩したことによるコンバートだった。よって最後の夏に限り、梅田選手は背番号「2」(田辺選手は「3」)。 ちなみに現在、所属する軟式野球チーム:東京バンバータでの背番号は、思い出の「5」でも「2」でもなく、「0」を着用している。この理由について梅田選手は、喫茶店閉店まで、ノーコメントを貫いている。 最後の夏、最後の試合で対戦したのが、3回戦、涌井投手(現西武)の横浜高校だった。3度目を迎えた宿命の対決は激闘の果て、2点差で敗れた。自身、実に甲子園通算17試合目。梅田選手の夏が終わった。 それまで1つの涙も見せなかった灼熱のクールガイ・梅田選手。 だがこの時ばかりは、涙という名の放物線が何度も、何度も、頬を伝った。 「ん〜あの時は、悔しさもありましたが、感謝の気持ちがこみ上げてきました。嬉し涙ですよね。」と貫禄の27歳。
忘れられないシーンがある。その横浜高校戦の終了後、梅田選手が大量の土をシューズケースに詰め込んでいた光景だ。生中継で報じられた名場面の1つだ。 それまで足元には目もくれなかった梅田選手。"永遠のクールガイ"確定かに思われた。実況のアナウンサーも「おぉ、明徳ナインは土を持ち帰りませんね」と一度発している。 これが、1年から甲子園に立ち続けた「男・梅田」のプライドか。 彼らしい生き様に、高校野球ファンも男気を感じざるを得なかった。まさに誇り高き皇帝。さすが明徳義塾。これぞ我が野球人生だ。誰ひとり否定する者などいない。
が、次の瞬間、梅田選手とナイン(3年生)が、一気に土をかき集め始めた。それも物凄い勢いで。 「・・・・」 放送席泣かせと言われてもおかしくない絶妙なタイミングであった。 それにしても、なぜ甲子園の土を持って帰ったのか。それも、あんなにたっぷりと・・・。 愛知の長渕と言われたあの梅さんがだよ・・・ 勇気を出して聞いてみた。 すると、梅田氏。ナポリタンで一度は潤いかけた唇を、フキンでソっとぬぐったのちに即答した。 「(あの土は)出れなかった同期にあげるためです。みんながいたから、あれだけの経験をさせてもらえました。常に一緒に戦ってましたからね。」 そう。スタンドもグラウンドも一体だった。それがチームだったはずだ。 本当に素敵な仲間を持った。”生涯一度の夢舞台”と言われる甲子園に5度も立つことができた。のちにプロに進出するライバルたちとも競い全国優勝も経験させてもらった。 高校時代に成し得た自信は、生涯の原動力。この先、長い人生でつまづくこともあるだろう。いや、梅田氏なら、ちょっとのことでは転ばないだろうが、本当に苦しい時が訪れるかもしれない。だがそんな時、道中で広げることのできる「十七歳の地図」が一枚、ポケットに収められているということは、すべての元高校球児にとって誇りだ。 ああ青春。あまりの感動に、店内は一瞬にして静まり返った・・・ かに思えたが、店内に客は我々のみだった。
高校JAPAN、世界準V ― 高校野球人生のラストは、高校ジャパンに捕手として招かれた。 梅田選手は主将を務め、AAA世界野球選手権大会準優勝に貢献する。その時のメンバーがエグい。 ダルビッシュ有選手(現テキサス)、涌井選手(現西武)、鵜久森選手(現日ハム)、石川選手(現横浜)、岩見選手(現広島)、福井選手(現広島)ら”ダルビッシュ世代”と呼ばれる面々である。 現在、MLBやプロ野球で活躍する当時の投手陣について聞くと、履いていたゴルフシューズの紐を左右片方ずつ順に、ギュッと結び直し、こう答えた。 梅田氏 「いや、全てのボールが規格外ですよ。涌井とダルは、カットボールで140kmを超えていたり、シンカーで135km投げたりしてましたからね。広島の岩見優希や福井もスクリューやスライダーがキレました。アメリカ、台湾、キューバを抑えてます。」 だてに緊急コンバートしていなかった。自身のセールスポイントについて梅田氏は「どこでも、それなりに守れることですかね」と控えめながら、ボールの扱いには相当な自信を持っている。そういえば、2011年、ストロングリーグでおこなわれたオールスターゲームのホームラン競争でも、バッティングピッチャーを率先して担当した梅田選手。約70球を、ど真ん中へ黙々と投げ込んでいた。姿勢は素晴らしかったのだが、”明徳梅田”という事実も手伝ってか、打撃陣はソワつき、30分粘るも結局ホームランが1本も生まれずという珍事件に発展している。2004年甲子園の土お持ち帰り事件以来となる本人悪きなしのハプニングである。 卒業後 ― 高校卒業後、明治大学に進むと、ここでも1年春から公式戦に出場する。 4年時には三塁手として東京六大学野球リーグで優勝している。優勝時の1年生に野村祐輔投手(現広島)がいる。 すなわち、我々野球人の夢である高校野球の聖地「甲子園」と大学野球「神宮」の両方を制覇した男だった。 大学卒業後の進路には相当な注目が集まった。ノンプロへの進出が濃厚かに思われたが、なんと、ここで突然、野球人生に幕を閉じることとなる。梅田青年は、自らの意志で一般就職し現在は商社マンとして活躍している。 当時の選択について「”未練はない”と言ったら嘘ですが、自分の能力を考えたら、並以上であったとしても、決してプロ並では無かったので、スッキリと諦めました。後悔は一切していません。」と取材陣を一蹴。ギラッと輝くその瞳は、一瞬こちらを睨んだようにも見えた。 終わった。俺たちのウメダが、終わった。この時点で完全に野球人生に終止符が打たれたかに思われた。 が次の瞬間、梅田選手は突如「軟式野球界」へ降臨する。 ここでも、多数の企業、クラブからオファーが舞い込んだ。約2秒迷ったものの、その中から軟式野球チーム:東京バンバータ(東京)をセレクトし、鳴り物入りで入団に至る。東京バンバータを選んだ理由については、木製の椅子に座り直した上で、「勿論、熊本監督の下で野球がしたかったというのはあります。あとは仕事関係の先輩が所属していることや同じ志を持った仲間が多かったものですから。」と答えてくれた。 軟式野球の世界は、チームごとに価値観がそれぞれで、未経験者同士で構成するチームもいれば、元高校球児らが集まり活動するチームもある。東京バンバータは後者に属するのだが、中でもラインナップが強烈だ。 山崎英紀選手(浦和学院)、山内慎之介選手(沖縄尚学)、吉田隼人選手(東邦)、小原慶治選手(駒大岩見沢)、岡本昂大選手(PL学園)、八木英樹選手(拓大紅陵)ら名門校のOB戦士が多数集うほか、ノンプロ、プロ経験者も名を連ねる。 その中でだよ・・・ ここでも内野手、捕手としてチームの主軸を担うことになった梅田選手。「いや、遊びじゃないですよ。やる以上はマジですよ。」2011年には、高松宮賜杯全国大会((財)全日本軟式野球連盟)でチームの日本一に貢献している。 最後に「夢」について聞くと、氷が溶け完全に薄まった珈琲を一気に飲み干し、こう答えた。 「現在の夢は、プロゴルファーです!」 え・・・? と、ここで閉店の時間を迎えた。 さあ大勝負― 今季ストロングリーグで甲子園に到達するとなれば、実に自身9年ぶり6度目の甲子園出場となる。
★東京バンバータ [公式] http://tokyo-bambaataa.com/ 東京バンバータ -草野球の殿堂- http://strong99.livedoor.biz/archives/50628004.html 2011年度 高松宮賜杯全国大会優勝(東京バンバータ) http://strong99.livedoor.biz/archives/51021673.html 2010年度 東京都大会優勝(東京バンバータ) http://strong99.livedoor.biz/archives/51057319.html 甲子園歴代優勝校 / デイリースポーツオンライン http://www.daily.co.jp/hsbaseball/hs_history.shtml
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2013/8/ 8
【祝】「あの日あの時青春野郎」復活!
ガンバレ高校球児!「あの日あの時青春野郎」が復活を遂げました! このコーナーを通じて、ストロングリーガー同士、また楽しく情報を共有していけたらと思っています。 あえて過去をほじくり返します。今なお輝いているから成立し得るコーナーなのかもしれません。 思わぬOB同士の「再会」や、元高校球児による野球の「再開」がひとつでも生まれれば嬉しいです。 「我こそは!」という元高校球児&現役ベースボーラーの皆様のお便りもお待ちしております。
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